記憶
…阪神大震災…
それは前夜から始まります。11年前の1月16日夜月がオレンジ色でとても大きく見えました。
夜我が家の愛犬が、今まで聞いた事の無い吠え方、家族は何があったのか・・と話した。
築70年の家に、一部建増しした部屋があり、家族(6人)は、それぞれの部屋で寝ていました。中二階建てで両親は、離れで、私と娘、息子は二階主人は一階の部屋。
改装した頃に父が、非常時など何かあった時の為、(二階のそれぞれの部屋の窓に格子を付けてあったのですが、東の私の部屋の窓一つだけ、格子を付けていなかったのです)「何かあったらここから逃げなさい」と言われていました。いつもなら子供達もぐっすり寝ているのですが、その夜は眠りが浅かったようで、いきなりドーンと地面から突き上げられる振動。そして私は思わず飛び起きて何が起こったのか分からないまま、まず子供達を守らなければ・・・ と思い大きくゆれる中、廊下へ出て子供達の名前を呼びました。
しかし、子供の声が聞こえない不安・・・ その間に階段下から、右往左往する両親の声がなぜかすぐ近くに聞こえた。私は叫んだけれど家の壊れる音で両親には聞こえない。やっと娘が崩れた壁の隙間から出て来た直後、見る見るうちに階段が土と一緒に埋まっていくのが見えました。しかしまだ息子の声がしない。どの部屋もドアが開かず、八方ふさがりで入れない。でも一番傾いて見えるのは息子の部屋。
こんなことで死んではたまらないと思ったけれど、その時にもし息子に何かあったら私はその部屋に飛び込み一緒に死のうと初めて思った事を思い出します
しばらくしてから、廊下にあった懐中電灯を持ち、崩れた壁の隙間から息子が出てきた時は心を撫で下ろしました。
大きな揺れがおさまり、外から「生きているか~」「何人(確認できているん)や?」の主人の声。
3人で二階から飛び降りないといけないと思い、「みな靴下を何枚も履きなさい!」
格子のついていない小さな窓から出ようとすると、一階がくずれ屋根瓦が落ち、瓦礫の山の下はスグ地面。そのまま外へ。両親も素足で出てきて思わず家族で抱き合いました。
私の家は戦前からのもので大変古かったのですが、当時としても柱や梁が太く、幸い二階の大屋根が崩れるのをしっかり耐えてくれました。(この柱と梁が私達を守ってくれたと思います。でなければ即死だった)
外は不気味なほど静かでした。こんな大きなことが起こっているのに、人の声すら聞こえてきません。何が起こったのかすぐには理解できません。
うっすら明るくなった空を背景に大きく傾いた屋根や、むき出しになった柱など、シルエットが浮かんでいます。そこに広がる昨日とは余りにも違った光景・・・
着の身着のままだったので寒い。とりあえず車二台を出し、寒さをしのぎました。
主人はご近所の人たちの救出。担架が必要で、近くに止まっていた救急車を呼びに行ったが、エンジンはかかったまま、ドアも開いたまま。誰も乗っていない救急車。
ご近所で倒壊した家屋の下にいる人たちの救出活動は、自分たちでするしかありませんでした。しかしそこには、あまりにも無残で、見たこともない光景が広がっていました。
夜が完全に空け、周りの悲惨な状況が少しずつ分かって来た頃、何事もなかったように駅に向かって出勤される人がおられます。(駅や線路も損傷。当然不通です)
こんな状況で、信じられない人達。 崩れ去った家を指差しながら・・・
それからの三週間は、知り合いに車を一台借り、家の前に車三台並べ過ごした。お風呂は豊中の知人に何度か借りた。
地震後、車を出し川を渡ると家には灯りはついてるし、お店もファミレスも何事もなかったように営業している。 まるで悪夢が夢のよう。
幸いな事に、井戸水(以前父が水質検査をし、飲料水として認められていた)があった事です。
その後、体に染み込んだ恐怖心は長い間消える事はありませんでした。ただ、家族の命や家族との絆の強さがあったから今日まで頑張ってこれたのだと思います。
最後に震災で亡くなられた方々へご冥福をお祈りいたします。
そして、遠方から救助活動やボランティアに来てくださった方々に11年経った今でも心から感謝してなりません。ありがとうございました。
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